’19.10.28
有能な人が亡くなると、その人の脳も無くなる、何ともったいないことかと思う。幾つもの落語のネタを持った落語家が無くなると、持っていたネタも消えて無くなる、何ともったいないことか。
そんなバカなことを考えたことがあったが、記録であればコンピュータの記憶素子に残しておくことができる時代になった。所詮記録でしかない。

ノーベル賞をもらって、今はMITの教授をやっている利根川進さんの談話が日経に載っていた。そのいつものパクリだ。
「記憶を蓄える細胞を顕微鏡で観察したり、操作をしたりして様々な実験が可能になった」
「マウスを使った実験で、記憶に支障が出るアルツハイマー病は、記憶ができないのではなく、記憶は作られるが思い出せないことが分かってきた。記憶の読み書きの仕組みに脳回路や神経細胞、分子レベルで迫る研究が相次いでいる」
「今、脳科学が扱っているのは『昨日何を食べたか』といった単純な出来事の記憶だ。これとは異なる種類の記憶に『知識』がある」
「脳を研究するということは、物体と精神という二元論の境目がなくなるということを意味する。神経の活動が何段階も統合されたものが人間社会や芸術などの活動で、私はこれらが本質的に同じものだと捉えている。そんため、文学や社会科学、芸術といった分野と融合して研究しないと本当の脳の機能はわからない」

脳の研究は興味が尽きない。脳以外の体は、脳を活動させるために動いていると思う。そんな考えを突き詰めていくと、なんだか恐ろしい発想になってくる。