’19.11.30
家内が亡くなって4か月余りが経つ。海洋散骨も済ませ一通りの供養は済んだが、家内の実家のご両親にお詫びと報告をせねばならぬと思っている。すでに他界されてはいるが。
年内にと思い、残した小さなお骨を持って実家を訪ね、可能であればご両親の墓に一緒に入れて欲しいと置いてきた。
久しぶりに年老いた私の兄貴夫婦と、家内の死について色々会話した。私の実感したこととして話したのは、何気ない日常の夫婦の会話で、もしものことをお互い話しておくことを勧めた。

11月30日は「いい看取り」、「いい看取られ」とごろ合わせをするらしい。
厚生省は前にも書いた「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」を、最近は「人生会議」と言って推奨しているらしい。
死ぬ行く人を周りの人はどう看取るのか、また本人はどう看取って欲しいのか、そんな話ができなくなる前に、話し合うことを推奨するキャンペーンを張っている。そのPRポスターが、その状況にある人を傷つけると非難が炎上して、ポスターを取り下げたという。

「死の規制緩和」のところでも書いたが、肺がんの宣告を受けたときの家内の潔さには、今更のように頭が下がる思いがする。
死ぬことへの恐怖や、いろいろな思いがあったと思うが、大きくは自分の胸の中に収めて治療をすることなく、死んでいった生きざまというか、死にざまというか、私もかくありたいと思っている。
周りの者が何か治療方法はないものか思案し、本人にどんな治療がしたいか確認する前に、このままの自然のままでいいと本人は医者や私に宣言した。
死んでからのお互いのことは、何気ない日常の会話の中でしていたので、結果的には本人との日常会話で希望したような送り方をした。今回も家内の方が先に旅立っていった。
(過去に、どっちが先に体が不自由になって、面倒を見てもらうかなという話をしていた。この時も家内が先だった)
無意識の中で「人生会議」ができて実践したことになったことは、残された周りの者としては幸せであったと思う。

当事者同士、その時期が近くても「死」について語るのは難しい。「人生会議」はそのことを、話し合える間にすることを勧めている。
家内がかかった医者は、誰一人積極的に治療を勧めなかった。「肺がん」という病気の特性もあるだろうが、「患者の意思がたいせつで、治療のことはご家族でよく相談して決めてください」と言われた。
「人生会議」をして、当事者が話し合えるうちにして決めてくれと暗に促している。
医者には患者が一日でも長生きできるような処置をすると思うのは、もう過去の話のようだ。