’20.1.12
最近の報道でよく言われるのは、民主主義の崩壊、もはや民主主義は立ちいかなくなるような論調だ。果たしてそうなのか。
今朝の日経のコラム「風見鶏」で、「民主主義3.0」なる言葉を目にした。何のことか。気になってネットでしらべてみたら、たぶんこういうことらしい。
民主主義の発生が第一段階とするなら、民主主義と社会主義の覇権争いが第二段階、そして今の民主主義が危機に瀕している状態を解決できた状態を第三段階、「民主主義3.0」というらしい。では民主主義の今はどういう危機があるのか、例によって日経のコラムのパクリ。

もし明日、自分が為政者になったらどう決断するだろうか。そんな問いを投げかける小さな実験がフランスで始まっている。
市民は自分の声を届ける機会が増える一方、ある日突然、注目され、決断に責任を持つ義務も生まれる。政治はプロの政治家が独善的に進め、市民は不満を言うばかりーー。そんな税時の現状をあらがう試みだ。

民主主義は本来、多数派も少数派も皆が我慢しなければ回らない。だが幼児は欲求を制御できないし、問題がすぐ解決しないとっ我慢ならない。「便利な技術や生活環境が『努力なしに手に入れたい』という幼児的欲求の実現を当たり前にした」と社会心理学者の加藤早大名誉教授は言う。そして潜伏していた現象は「トランプ大統領のような幼児化した指導者に刺激され、共鳴し、急速に表面化した」。
どうすれば市民は大人に戻れるのか。民主主義を続けるにはこの難題にこたえなければいけない。先の「くじ引き民主主義」はそんな解を探る試みのひとつといえる。

市民参加や熟議の政治には時間とコストがかかる。直接民主主義から間接民主主義に移行した歴史に逆行するようにも見える。だが今や人工知能や量子コンピューターも実現する時代だ。技術の力で時間とコストを節約しつつ民意を広く映し出す「民主主義3.0」の模索も可能ではないか。
紀元前4世紀、プラトンは民主主義を激しく批判した。民主制は必ず衆愚政治に陥り、過度の自由につかれた民衆は独裁者を連れてくるという。今、世界はプラトンの予言そのものだ。
だが21世紀を生きる人々が紀元前の予言を覆せないわけがない。20年代を流れを変えた時代とするためにまず議論から始めよう。そしてまだっ分断の前で踏みとどまっている日本には世界を変えるイノベーション発信地となる資格がある。

このコラムは日本への期待で終わっているが、安倍一強が独裁者だという野党政治家がいる。まずは日本の政治が、次元の低い議論は別のところでしてもらい、真に「民主主義3.0」をどう実現するか、大いに議論するところからやってもらいたい。
今の野党は、野党の中ですら議論がかみ合わないで、自民党の独裁を許している状況ではないのか。