’20.1.13
肺がんで家内をなくして、それ以来「肺がん」というコトバに敏感になっているが、今日の日経のコラム「向き合う」の記事を読んで、肺がんに向かう壮絶さに感嘆した。
もっと壮絶な戦いをしている人もいるだろうが、私が見聞きする中でもこの記事の経験には頭が下がる。

2015年2月、私は勤務先の東京大学病院のCT操作室で、撮られたばかりの自分の画像を見つめていた。とげとげしい18o大の肺結節が映し出されていた。放射線科医の矜持で10種類ほど鑑別診断を考えたが、どう見ても9割以上の確率で肺がんと言わざるを得なかった。
「ごく初期の肺がんなので切れば治る」と信じて10日後に受けた手術は、容赦ない現実を突きつけた。がんは肺の表面の膜を食い破り、肺と胸壁の間のスペースにこぼれ落ちていたのだ。この状態だと5年生存率は3割とされる。最愛の金融マンの夫と4歳の息子を残して、この世を去ることを考え始めなくてはいけなくなった。

術後4ヶ月にわたって化学療法を受けたのち、通常業務に復帰した。初めの1年間は、頭の片隅から、癌や死のことが離れることはなかったが、大学教員として日々の診療、教育、研究に忙殺され、国内以外の学会出席を数多くこなすうちに精神健康も取り戻した。仕事は最良の薬だった。
肺がんは再発するならば3年以内が多い。「3年を超えれば5年生存は達成できる」と期待したが、「あと半年で3年」の17年7月、肺表面に6か所の再発が見つかった。
分子標的薬を飲み始めると、再発がんは数ヶ月で縮んだ。最近の分子標的薬の進歩は目覚ましいが1年半後には効かなくなり、リンパ節に転移した。

19年1月に2回目の手術。2〜5月には2回目の化学療法、6月には3回目の再発に対して3回目の手術、9月には4回目の再発に対して放射線治療。そして、すべての再発を退治することに成功した。
この再発後の2年間では、医師として専門の放射線被曝の領域でいくつかの大きな仕事を成し遂げた。
今年2月には5年生存を達成する。治療と家庭と仕事の並立を支えたのは、がんになる前の長い闘病生活から生まれた経験と信念だったと思う。

このコラムは第一回目の記事だ。東大病院放射線医 前田恵理子さん、1977年生まれ、重い喘息を抱えながら東大医学部を卒業、放射線科医になったと経歴にある。第二回目は、この重い喘息との戦いの生活がが書かれていた