’20.6.8
新型コロナの世界各国の対応で目につくのは、日本の後進国ぶりだ。とりわけIT関連のインフラの遅れが指摘されている。
一方で自粛要請だけで1次のコロナ禍を乗り越えたことに対し、政府とりわけ安倍首相が声高にその成果を喧伝している。それは一方で、法に基づかない国民統治を招く危険性を懸念するのが以下の記事だ。いつものパクリから。

トランプ大統領はウィルス事態を戦争と呼び、マクロン仏大統領は「戦争状態」という表現を繰り返した。日常生活と切断された別の秩序により問題を解決せねばならないし、その基準は戦争だという認識も広く見られた。
いわば危機は「準戦時」であり、戦争で活用される軍隊を中心とした組織、あるいはそこで可能になる国民の権利制限や政府による独裁的な権限行使をやや緩やかな形で活用すればいいというわけだ。

だがウィルス問題は、人間の行為が引き起こす国家間の紛争ではない。自分と関係のない誰かが敵として襲い掛かってくることにより、生命が危険に瀕する訳でも無いだろう。戦争時のように、他者に対する積極的な加害が許されるというこものでもないはずだ。
ウィルス問題はむしろ災害のようなものであり、我々自身が自らの行動を十分にコントロールできるかが生死を分けるという意味では、自分との戦いだと言ってもよい。その意味で問題は正しい意味での戦争ではなく、社会のセルフコントロールにあるということになるだろう。

だが同時にそこでは、すべての人の合意が得られるまで議論を繰り返すとか、必要な資源を調達するために必要となる契約について事前に交渉すると言ったように、人々の財産を使う、あるいは行動を制限するための準備に十分な時間をかける余裕も存在しない。
民主主義に支えられた平和な日常が被治者の同意に基づき、我々自身が納得し受け入れた政治権力により統治されるべきだとすれば、危機いという状況はそれとも大きく異なる。そこにあるのは戦争でも平和でない第三の領域なのだ。

多くの先進国では、それが日常とは異なるという点に注目し、戦争に対応するための法制度を危機へと当てはめる対策がとられた。
日本でも戦前の体制では、非常時に軍隊による治安維持を可能にすること(戒厳の布告)が憲法上想定されていた。だが周知の通り、日本国憲法はそうした体制が引き起こした問題点への反省を契機として、平和から戦争へと移行することを厳に禁じるという特徴を持っている。
軍隊や警察による強制的なロックダウン(都市封鎖)が実施されることなく、ただ自制と協力を訴えかける「お願い」のもとで、ある程度の日常生活が維持されつづけるという、特に欧米の目から見れば奇妙な対策がとられた。その背景には、そもそもそれ以上の対応を認めた制度が存在しないという事情があった。
だが、それでも今回の危機は何とか抑えられそうだからいいだろうと、そうした手法を手放しに肯定することが許されるだろうか。(一部略)

危機が一応は軽減した状況だからこそ、次に起こり得る危機に対してわれわれに何ができるか、何をしてはいけないいかについて社会的に議論し、法的な裏付けを整理する必要があるだろう。
問われているのは、治にいて乱を思うことができるか、危機においても壊れない民主主義のあり方を立て直すことができるかという課題なのである。


まあこんな記事だが、凡人にも分かったことは今回の日本政府のコロナ対応は、平和憲法にのっとって取り得た手段であって、必ずしも日本国民を信頼してのことではなかったらしいということだ。
しきりと言う社会的議論は、どうやってやるのか。今の国会の与党と野党のやり取りからは、決してこんな議論ができるようには期待できないのだが、さて。