’20.11.14
なるほどと思う日経のコラム、「文化」から。書いているのは柏木 博氏というデザイン評論家。

私たちは無数の「しきり」を生活の中に作っている。国境、民族、プライバシーのための多様な「しきり」。
そしてミクロの「しきり」としては、自己と非自己を仕切っている免疫。「しきり」は、私たちの物理的・精神的システムを延命するための防衛装置としてある。

「しきり」の形式は文化の差異を反映している。たとえば、日本の伝統的なしきりの襖や障子、あるいは屏風は、欧米の強固な壁やドアとは異なって、互いの気配を感ずることのできる柔らかいものであった。たまたま見てしまったり聞こえてきたことは、見たり聞いたりしなかったことにする。そうした配慮の文化を生んできた。
20世紀末には、ベルリンの壁が崩壊し、世界は解放されたものとなるように思えた。けれども、今世紀には、メキシコとの間に壁を作るという大統領が出現してきた。この30年余、壁の崩壊と再構築という時代だったのだ。
アメリカの大統領の言説は、分断と差別の壁をより強固にしたように思える。いま、時代は「しきり」を強固なものにしようとしているのだろうか。

おりしも、新型コロナウィルスによるパンデミック状況が引き起こされえた。感染経路は、接触感染や飛沫感染に加えて高濃度のウィルス粒子によるエアロゾル感染。結果、マスクやプラスティック製のゴーグルなどの防衛装置をはじめ、都市のロックダウンとさまざまな「しきり」が出現した。
ウィルスへの防衛は可能な限りしなければならない。しかし、その防衛のために使われる「しきり」は単なる感染予防の道具やシステムであるにとどまらず、それは私たちの感情や感覚そして文化に新たな変化を引き起こしている。しかも、そこからさまざまな思考のバイアスを生み出してもいる。

アメリカの大統領選では、マスクはトランプ氏とバイデン氏の両派を示す象徴的なものとなった。集会での個体間距離(空間的しきり)を取るか否かも両派の差異を表すのもとなった。それは、感染を知的の防衛するのか、感染よりも人々の身体的共感に共鳴するかの対立となっていた。飛躍すれば、知性的(科学的)であるか、身体的共感かの対立がマスクや個体間距離といった「しきり」をめぐって可視化されたといえる。

経済的・社会的に分断の壁(しきり)を作りだしてきたトランプ氏は、ウィルスという目に見えない極小の存在への「しきり」には意図的に無頓着であることをアピールする。むしろ人種や階層などの帰属意識による「しきり」を示したのだ。
21世紀転換期にSOHO(スモールオフィス・ホームオフィス)という言葉が出てきた。パソコンを使って自宅で仕事をするようになるといわれた。しかし、定着することはなかった。
ところがコロナ禍の現在、自宅でのリモートによる仕事に違和感がなくなってきた。空間を共有することもなくモニタによる「しきり」を受け入れたのである。通勤やオフィスでのパワハラなどの人間関係から解放されたというプラスの面もある。
けれども、こうした状況からデジタル・デバイド、情報格差という「しきり」がそれとなく生まれている。デジタル装置やネットワークを持つことの貧富の差。それを使いこなせない高齢という年齢格差。
さらには多様な人々のコミュニケーションが少なくなる。ネットの中で、自分に近い意見にしかアクセスしなくなる。その結果、異なる意見を見聞することなく、同意見の仲間の中だけで完結してしまう。ネットの「「しきり」の中だけのコミュニケーション状況である。

かつてマクルーハンは電子メディアによって、世界中がつながるグローバル・ヴィレッジが形成されると考えた。けれども現在、それとは逆にそれぞれの「しきり」に囲われ、相互につながることのない集団(トライブ)となっている。
カミュの『ペスト』では身勝手な新聞記者ランベールが変化し、主人公の医師リウーとともに予防隔離所を組織する。問題を共有することもまた一つの主題として描かれている。
いま社会的な「しきり」が知らぬ間に強固にされつつある。だがそれに抗い、寛容、非分断、非差別など、半開きした障子のような柔らかな「しきり」を再生すべきだ。そうした優しい「しきり」意識の回復には多大な努力が必要である。

この文を書いた柏木氏は、「『しきり』の文化論」という図書も著している。人間社会にこの「しきり」が、至る所にあることに思い知らされる。