’20.11.17
お墓の広告を見るたびに、我が家には先祖のお墓も家内のお墓もないことに思いを致す。もともと家内の葬儀も、お坊さんもいなければお経も挙げなかった。全くの家族葬で、葬儀も我が家で執り行った。
お棺には飾った色とりどりの明るい色の生花を切って、遺体の回りを花一杯に取り囲んだ。泣き悲しむ訳でも無く、孫娘などは花を手にして記念に撮影している前でニコニコして手を振る。こんな葬儀もいいと思った。
火葬したお骨は海洋散骨して、小さな骨が実家のご両親の墓と我が家の仏壇の中に祀られている。

位牌は戒名もなく、実名の位牌だ。葬儀屋には私の生前葬も一緒にすることをお願いし、私の位牌も実名である。位牌には死んだ年月日が入っているが、私の位牌は何年何月建立とだけある。
毎朝仏壇に手を合わせるとき目に入るのは、飾ってある家内の死んだ時の写真と実名の位牌と小さな骨壺だ。
位牌に家内の霊が移ってくれるように願うお経も挙げてないので、毎朝何に向かって手を合わせているのか考えるときがある。お祈りで思うことは毎回5つほどあるのだが。

仏壇の左右には家内の干支と私の干支にゆかりのある、文殊菩薩と普賢菩薩を置いてある。家内の死んだ時の顔写真の代わりに、仏像を飾ることも考えた。仏壇というくらいだから、仏像がいないのもおかしいのではと考えたからだ。
しかし考えてみると、仏壇に向かって毎朝手を合わせるのは何に向かって手を合わせ祈っているのか。全てが心の持ちよう、考え方だと思う。

仏壇もお墓も、そこに死者の霊があるからと思うから手を合わせるのだと。また祀っている位牌やお墓に、お経を唱えて霊を宿す儀式をするのも、そう思いそう考えるからだと思う。
確かに仏壇の仏様、お墓に霊が宿っていれば手を合わせて拝むのも理解できるが、これも心の持ちようだろう。仏壇とお墓の意味合いは何だろうとも考える。お墓詣りというように、お墓があることによって一つの行事ができる。行楽の意味合いもあったんだろうと考える。

最近は「墓じまい」という言葉をよく聞く。お墓を守っていく、面倒を見ることができなくなって建てたお墓をなくす儀式だ。私が墓を持たないのも、先々子ども達の負担になってはならないと考えたからだった。納骨をするお墓がなければ、遺骨をどうするか。海洋散骨も、こんな考えから行った。
故人を弔うという行為は、形に表すことも大事だろうがそれ以上に心の持ちようにあると思うのは間違いだろうか。