’21.2.11
新聞やテレビで見る顔は、いかにも年を取ったなと思う。80歳過ぎるとあまり顔は出さない方がいいなと思ってしまう。森元首相の発言が、コロナで開催が危ぶまれているオリンピックの前だけに物議を醸している。日経解説記事のぱくりだ。

鎮火するどころか火は燃え盛るばかりだ。東京五輪・パラリンピック組織委員会の森善朗会長による女性蔑視と受け取れる発言をめぐる国内外からの反応である。ただ火が消せない背景には結構根深いものがある。そこには日本政治の姿が凝縮されているからだ。

発言を撤回し謝罪することで取りあえず乗り切れると森氏と周辺は読んでいたに違いない。確かにひと昔前だったら、そうなっていたかもしれない。
首相経験者で政治の世界だけでなく、いろんな方面になお影響力を持つ森氏。特に利害が対立したり、感情がもつれたりするややこしい物事をうまくまとめ上げていくことはお手のものだ。典型的な自民党の調整型のリーダーである。

権力闘争をなりわいとし、政治的な貸し借りで成り立っている政治家間では、この手のタイプはリーダーに正面切って異論を唱えるのは、かなり勇気のいることだ。
最大派閥の細田派に隠然たる力を持つ派閥の元領袖。自民党から辞任を主張する政治家が現われないのにはそんな事情がある。
底流にはもっと本質的な問題が横たわっている。ムラ社会を合意形成のモデルとする自民党の基本原理がそのものにかかわってくるからだ。
その主なるものは、当選回数が多い議員が一目二目置かれている長老支配、GNPとやゆされる義理(G)と人情(N)とプレゼント(P)、そして全員一致原則である。
全員一致するためには裏でさまざまな技は使うが、落ち着けば表では「わきまえて」とやかくいわないのがムラの掟だ。だから党大会はシャンシャン大会となる。

古くは派閥のことおを「ムラ」とよんだ。5つや6つの小さなムラが集まったのが自民党という大きなムラだった。森氏は今なお自民党のムラ長だ。ムラビトからはおのずと「村長さんは失言したが、謝ったのだから大目に見よう」という話になる。それは仲間内の論理だ。
日本が外に向かって閉じていた時代、封建制を引きずる古いジャパニーズ・スタンダードの世ならば通用したかも知れない。しかし世の中は既に2回転くらいしている。男女共同参画に異論を唱える人はいない。国際オリンピック委員会(IOC)は手じまいの態度を一変させ「一体性、多様性、男女平等は活動に不可欠な要素」と言い切った。森氏はどうするつもりか。
ましてSNSの時代である。個人がメディアになり、情報は世界を駆け回る。駐日のドイツ大使館や駐日欧州連合代表部などが、発言を求める片手をあげた写真をハッシュタグをつけてツイッターで投稿。それぞれ2万近くリツイートされ、拡散をつづけている。

森氏問題は旧世代の男性社会の感覚をはしたなくも露呈した面があるのは否定できない。あわせて、その上に成り立っている日本政治の姿もあぶり出した。
時代に乗り遅れた人の起こす悲劇が本人だけにとどまっていれば喜劇で済む。しかし国ということになると劇の舞台そのものが危うくなる恐れすらある。火消は今からでも遅くないから早いに越したことはない。
ムラ長はムラビトから敬意を払われてこそムラ長だ。

こんな解説記事だが、80歳になる私にもこの程度のことでという感覚がある。今に生きる人間としては、もはやそれが危うい。そういう人間はもう表舞台には立ってはいけないのだろう。

3.3 追記
その後、森元首相は辞任して後任は橋本聖子五輪相が会長に就任した。森元首相のこの発言は、上にあげた政治的な面ばかりでなく、日本の男女平等や多様性の尊重という世界共通の理念からも遅れていると指摘されている。
「アンコンンシャス・バイアス」という言葉があるらしい。「自分では自覚できない無意識の偏見」という意味だ。日本人の多くは、特に男性はこの偏見が強い。そんな指摘に対して、私なんかは日本の文化から説き起こしてこの偏見に取り組まねばと思うのだが。学びは死ぬまで続ける必要がある。