’21.7.22
昨日の日経夕刊の「あすへの話題」に精神科医 きたやま おさむ氏のコラムが載っていた。共感するとともに、これって日本人特有の感性と言うか気質だろうかと考えてしまった。非常に首肯してしまうところを思うと、日本人の気質かもしれん。

日本語には表と裏、本音と建て前、公と私など、人格の二重構造を表す表現が多く、日本人は軽い二重人格だといえそうだ。具体的には、「顔で笑って心で泣いて」 「武士は食わねど高楊枝」 「心頭滅却すれば火もまた涼し」という生き方や、「アヒルの水かき」 「自転車操業」 「台所は火の車」と、次々と私たちは裏腹な人生を作り出している。

またワビ、サビ、粋、イナセ、そして恥と言うような自己規制の厳しい美学や道徳を有し、それを誇りにしているくらいだ。典型的な場合は、どれほど苦しくても化粧をし仮面をつけ、我慢をして弱音を吐かず、涼しい顔をして生きている。
しかし、この生き方には強い不安や恐怖が伴う。本当の姿を隠して、メッキの剥がれるのを恐れている。実際に隠している醜態や恥部が一体何なのか、本人もわかってないままであることが多い。例えば日常では、ケガレや不浄として、タブーのごとく排除、抑制、禁止されやすいものとは、傷つきや病気、そして死や性などの「人間の真実」なのだ。

これらは本当にみっともなくて恥ずべきことなのだろうか。「秘すれば花」というが、個人個人が醜態や恥部だと感じているものとは、大抵は誰にでもあることではないのか。「人の迷惑や邪魔になる」とか「おさわがせしてすいません」とか言うが、本当に迷惑をかけるのだろうか。

誰もが傷ついていて、性的であり、やがては死ぬ。それを見る者たちが「見にくい」と目をそむけるので、見られる側が「醜い」と思い込むのだ。

こんなこらむだが、精神科医のコラムだけに意味深い。所詮人間は分からない動物だと決めつけてしまうのは易しいが、訳も分からず苦しんで死んでいくのはごめんだ。