’21.8.13
テーマのタイトルは日経夕刊の「あすへの話題」と言うコラムから拝借したものだ。日常生活の過行く時間は又と来ない一瞬の時間であり、その時の行動は2度とない唯一の行動だ。「聖なる一回性」の積み重ねが、人生となるのだろう。

パソコンゲームが流行りだしたころ、ゲームの内容が自分に不利になるとリセットしてやり直すことができることから、生活までもがリセットできる錯覚になるようなことが話題になった。日本の風潮は、失敗に厳しくリセットすることが難しいと言われてきた。
しかし罪を犯しても下された刑期を全うすれば出直すことができるし、遊びにしてもゴルフでOBを出してもペナルティー(一打罰)を払えばやり直しがきく。人生も社会生活の仕掛けの上では、もう一度やり直すことができる。しかしここで言う「聖なる一回性」は、やり直しのきく行動を言うのではなく一瞬一瞬の行動は再現性がないことを指している。

ゴルフの試合での一打一打は一回性の積み重ねでだが、その一回性を悔いのないものにするため繰り返し繰り返し同じような練習する。時にはビデオを撮って、今打った動作をもう一度見たりする。
ビデオを見ることができるようになって、「聖なる一回性」の希少価値が大いに下がったと嘆く向きがある。日常見ているテレビの映像は、その大半が一回性の動作なり風景の再現したものだ。便利なようではあるが、「聖なる一回性」を見ているのではない。
なぜライブだとか劇場だとか野球場に出かけるのか、その気持ちが分からない人も多いだろうが、そこに見る「聖なる一回性」を見る人には堪らなく面白いものなのだろう。

2020東京オリンピックも終わったばかりだが、開会の直前昔の言動を非難され、オリンピックの開催に携われなくなった人がいた。誰しも人生であの時あんなことがなければ、あんなことをしなければと悔いることを感じない人はいないのではないだろうか。一回性が「聖」なるものの所以でもある
最近学生時代の連中と、Zoomなるアプリを使って雑談のミーティングをしている。ホスト役をやらされて十数人のミーティングを仕切ったが、何とか2時間近くをうまくやったつもりでいた。途中どんなことを言ったか、どんなへぼをやったか、「聖なる一回性」なのであまり気にしないでいた。
ところがこのミーティングを録画がしている輩がいて、後になってFBに上げていた。それを見て、何とも恥ずかしい思いをした。やなり人生は「聖なる一回性」の積み重ねがいいとつくづく思った。

それだけに人生は二度とない時間の積み重ねだと肝に銘じ、余り思い悩むことなく「聖なる一回性」を実践していること自覚し、一瞬一瞬を過ごしていきたいと改めて思った。