’21.10.22
去年から始まったコロナ禍、今まで大きな感染の山が5回ほどあった。国会でも感染者が増えると、今の感染状態は第何波が来たのかと意味のない野党の質問が続いた。
第5波と言われる波はコロナの感染力が強くなって、今までの中で全国の感染者の数が一番多い。その第5波もこのところ急速に落ち着いて、感染者数も全国で2桁に向かて減ってきた。ワクチン効果だろうと言われるが、はっきりした感染減の理由が分からないので第6波に備えが必要だと言われる。

日本全国で衆議院選挙活動の真っただ中、10月31日の選挙に向けて新聞紙面もにぎやかだ。選挙公約と中国の言動は当てにならないという気持ちがあって、各党の選挙公約にはあまり関心が湧かない。
各党とも景気浮揚と国民生活向上のため国の予算をふんだんに使うというが、その後始末をしなければならない子供達には選挙権がないのが大問題だと声高に言う評論家もいる。

会社生活も終え年金で生活し、家内も死んで子どもたちも独立して一人家で暮らし、後は誰にも迷惑を掛けないで死んでいくことを待っているこの身としては、究極の自由人ということが言えるだろう。
年を取ることによって体は全く言うことを聞かなくなるが、幸い思い考えることのできるうちは年を取るのも悪くないものだと思う。何の束縛もなく自由に思い巡らすことができるということは、思いのほか楽しいものだ。

他人の立場に立って考えるとき、その人の今置かれている環境だけを見聞きして考えるから楽しいのであって、その人の全てを知ってしまえば想像もしぼんで何の楽しみもない。そういう条件で世の中を見ると、年を取ってくると自分が一番偉く思えてしまうから不思議でもあり厄介いだ。
厄介な方は「年寄りの冷や水」と言われたり「ぼけ老人」といわれて老兵は去るのみと嫌われる。

楽しく考える分には、「何故そんなことをするのだろう」とか「こうすればいいのに」とか、とにかく世の中の人のやることが愚かに思える。そして思い至るのは、若い時になぜ「ああしなかったのか」と悔やむことだ。
せめて自分の子供に何故教えてやれなかったのかという後悔だ。だからと言ってそれを孫に実行しようものなら、孫の両親から煙たがられるのが落ちだろう。

年を取ると世の中が見えてくるように思うのは、組織や団体に属さない自由な行動や考え方ができるからだと思う。何かの枠の中にいる時はその中でのいろいろなアイデアはでるだろうが、なかなかその枠を超えた発想をすることは難しい。
また勝手な想像を巡らすのも、明日に困らない保証と健康であってこそできることだ。そして年を取っても「影響される力」を持つことだろう。趣味やSNSなど新しいことに挑戦する気持ちが欲しい。

つくづく思うことは、世の中が見えてくるような気持ちを若い人たちが早く持ってほしと思うことだ。そのための読書だとか教育が必要なのだろうが、それができないのはそれよりも楽しいことが若人には多いからだろう。
自分の若いころのことは、年を取ってよく思い出せないのだが。