’21.11.24
この歳になって今更とおもうが、ボランティアの勉強をしてみたいと思った。
退職して民生児童委員になり町内会役員になって、生まれて初めてボランティアらしき活動をしたがボランティアとは何なのかの知識は皆無だった。

今も町内会役員をやっているが、民生児童委員とあわせるとかれこれ20年近く地域活動をしていることになる。しかし正直な気持ち、自分は地域住民のために奉仕の精神でこの地域活動をしているかと言えば、それはちょっと違うような気がする。
それではボランティアとは何か、どんな精神状態をいうのか知りたいと思うようになった。

まずボランティアの定義を知りたくて、安直にもインターネットで厚労省やいくつかのNPOのサイトで調べてみた。共通するいくつかのキーワードが載っている。

ボランティアの4原則
1、自主性・主体性:どんなきっかけでも自分でやってみようという気持ちからはじまる
2、社会性・連帯性:課題を発見し改善していくため、自分で考え多くの人と共同で活動する
3、無償性・無給性:精神的な報酬を得るもので、個人的な利益を求める活動ではない
4、創造性・開拓性・先駆性:自由な発想やアイデアを大切にし、方法や仕組みを作り出す

だとか、同じような言葉だが
1、自発性:自由な意思でおこなうこと
2、無償性:利益を求めないこと
3、社会性:公平に相手を尊重できること
4、創造性:必要に応じて工夫できること

キーワードだけでは定義を知るだけで、その意味するところがいまいち理解できないのでさらに調べてみた。その結果たどり着いたのが以下のようなことだ。

ボランティアの意味だけからすれば「奉仕」というイメージをもつが、実際は「志願者」や「有志者」と言う意味だ。あくまでも個人の自由な意思によって行われる活動であり、自発性によるものなのだ。自発的な行動でない奉仕、といった意味合いではない。

では「ボランティアの意義」はと問われれば、「ボランティアを行うにふさわしい積極的な価値」と考えれば少し理解が進むように思う。さらに私の疑問は、ボランティア活動は、はたして「ひとりよがり」なものかと言うことだ。
それは決して「ひとりよがり」なものでなく、そこには「何らかの助けを求めている人へ手を差し伸べたい」という受け手側への思いやりと、受け手側のその思いを快く受け入れる気持ちが無くてはならない。
つまり、ボランティアは一方的なものではなく、する方と受ける方双方の共感による協働のものであって、決してただの自己満足ではないことを理解する必要がある。

私がいまだ疑問に思う「ボランティアの心はどこから生まれるのか」と言うことだ。そのことについて、次のことがヒントになるかもしれない。
ボランティアが持つ最大の力は、「私」発であることだ。つまり、自分自身が気になること、好きなこと、得意なこと、あるいは憤りを感じること、放っておけないと思うことなどからボランティアの力が湧いてくる。

ボランティアの分野は2011年の東日本大震災に代表されるように、今や災害時に活動するものだという印象がある。しかしボランティア活動は、福祉、医療、教育、環境、国際交流、多文化共生、国際協力、さらにスポーツ、文化、芸術なども含めた多様な分野で取り組まれていることを認識することだ。

「ちばし地域づくり大学」に参加して
このたび令和3年度の「ちばし地域づくり大学」の募集があった。自分の「ボランティア」に疑問を持っていたので、ボランティアを実践することで理解を深めるべく応募・参加した。私の選択したコースはボランティアの基礎コースで、しかもオンライン講習中心の講座だ。

カリキュラムはボランティアのプラン作りを残して修了し、今はボランティアの実戦実習中だ。これまでのカリキュラムは、オリエンテーションの講習で「ボランティア」の何たるかを学び、ボランティアの強烈な事例を代表者の講義で学んだ。
実技で千葉駅周辺を観察し、気づき、改善点などを班ごとに行った。いよいよボランティアの実戦教育だが、その前に自分の参加したいボランティア団体とのマッチングがあった。色々なボランティア団体の紹介は、ボランティアの対象分野を知るうえで大変参考になった。
ボランティアの実習は、会員の皆さんの行動や代表の方の活動ぶりをつぶさに見て勉強になる。会員の皆さんはどんな気持ちで参加されているのか、直接その声を聴くことができなかったのが残念だ。

私が知りたいボランティアをする気持ちの源泉はどこにあるのか。カリキュラムはその気持ちのある人が、自分のやりたいボランティアの分野を見定める技術論のような気がする。私はまだそれ以前なのだが。
ボランティアをする気持ち、所詮それは与えられるものでなく自分で掘り起こして見つけるものなのだろう。そのエネルギーも年齢とともに小さくなるのは致し方ないことか、とも考える。