’21.12.25
このところ「無常」という言葉に引っかかっている。時の流れとともに、万物はどれ一つとして止まってはいないという事だが。
小林秀雄の書き物に「無常という事」があることは知っていた。どんなことを書いているのか知りたくて、アマゾンで検索すると「モオツアルト・無常という事」というタイトルで文庫本が出ていた。早速購入した。

本を開いてびっくりした。目次を見ると7ページから226ページまであって、「無常という事」はその中で83ページから87ページまでのわずか5ページだ。(「文學界」昭和17年6月号)米国との開戦の翌年に書かれたものだった。

浅学非才の私ではあるが、さぞかし難しい大哲学論文だろうと思っていたので何とも拍子抜けしてしまった。小林秀雄の文は、大学入試問題に出るような難しい文章という先入観からか、短い文章ながら良く分からない。それでも小文なので、何度も読んでみた。

ネットでもこの小文の解説がけっこうあるが、内容の一つに、時間には「直線時間」と「円環時間」があるという事のようだ。
直線時間はキリスト教文化の産物で、天地創造から終末までプログラムされているというもの。一方円環時間は東洋思想にもとづくもので、輪廻転生がまさにこの思想に基づくものらしい。

或る日、或る考えが突然浮かび、たまたま傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。
「生きている人間などというものは、どうも仕方ない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分のことにせよ他人ごとにせよ、分かったためしがあったものか。鑑賞にも観察にも堪えない。
其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」
上は小文の一節だが、歴史に登場するヒトは人間で、今生きてる人間は動物という。小文の締めくくりはこうだ。
現代人には、無常という事が分かっていない。常なるものを見失ったからである。とこれで終わっている。

日経の夕刊に「あすへの話題」という連載コラムがある。精神科医のきたやま おさむ氏が「まわる時間と安心感」というタイトルで書いていた。
直線的な時間は過去から未来に向かって流れていて、この時間は二度と戻ってこない。 ところがありがたいことに、時間にはもう一つ、円環的時間というのがある。巡り来る時間だ。
今年も桜は咲いて散ったけど、来年も必ず咲く。春夏秋冬の四季、海の満ち引き、寄せては返す波、月の満ち欠けに感じる、サイクル、循環、周期という時間が存在する。この円環的時間がきちんとまわってくれていると、私たちは安心なのだ。
私たちの多くは、この円環時間の規則正しさにしがみついて生きているのだと思う。

このコラムは「無常という事」とは関係ないが、無常を理解するのに大いに参考になると勝手に思っている。