’22.4.22
ロシアがウクライナに侵攻して2か月近くになる。プーチン大統領は目的の都市マリウポリを掌握したと宣言したが、ウクライナはまだ交戦中という。ロシアもそろそろ矛を収めたい時期なのだろう。

世界は今や民主主義国家と専制主義国家のせめぎ合いをしている様相だ。世評は民主主義が正義で、専制主義が悪だという風潮だ。考えてみればおかしな話だ。
確かに専制主義国家や権威主義国家と言われる国の国民へのしうちは、民主主義国家から見れば許されない行為が多々報じられる。その価値観で往々に争いごとが生じている。

世界は民主主義と専制主義しかないのか。どんな主義の国家でも、国民が納得して平和に楽しく生活できていればいいではないかと思う。
そんな幼稚な疑問に、多少参考になるような記事が日経に出ていた。「ウクライナ危機が試す民主主義」というタイトルで、日本総合研究所の呉 軍華という女性の記事だ。

バイデン大統領は、ロシアの侵攻によるウクライナ危機を「民主主義と専制主義の戦い」という。その通りだ。強いて違いを述べるなら、ウクライナでの戦いは、民主主義と専制主義の本格的対決を控えた前哨戦の可能性があるという点だ。無論、杞憂であって欲しい。そのためには2つの要件のいずれかを満たす必要がある。
ひとつは、専制主義国家の自由主義への仲間入り。もう一つは、独裁者に民主主義に挑戦する「自信」を持たせないことだ。ゼロとまではいわないが、前者の可能性は極めて低い。

専制主義の伝統をもつ国家の民主化には3つの移行が不可欠だ。政治体制と経済体制の移行、そして伝統的に根ざした文化への抜本的反省を踏まえた人々の意識の移行だ。
旧ソ連崩壊後、ロシアの政治・経済体制の移行はそれなりに進んだ。しかし、意識の移行が伴わなかった結果、今日の状態に至っていると言える。ロシアと同様、力で現状変更を企てようとする専制主義の国々が存在する。
それらの国の多くは、意識の移行はもとより、政治体制の移行も経験したことがない。ウクライナ危機を民主主義と専制主義対決の前哨戦でなくするには、独裁者が意のままに世界を変えられるなどと思わせないことが重要だ。
独裁者が民主主義に勝てると判断したとき、専制主義は民主主義の脅威になる。危機を繰り返さないためには、ウクライナ侵攻をプーチン大統領にとっての「ワーテルローの戦い」(プーチンをナポレオンとみなす)として終わらせ、他の独裁者が民主主義に勝てるという自信を持つことがないようにする必要がある。

プーチン大統領が21世紀にあえて19世紀的な蛮行に踏み切った背景には、資源価格の急騰や、ドイツなどがロシアの資源への依存度を高めていることに加え、民主主義が衰退しつつあるとの判断があったのだろう。「東昇西降」を世界の流れとしてとらえる中国の習近平主席も、西側の民主主義が衰退の一途をたどっていると判断しているようだ。
西側社会にも民主主義が正念場を迎えているとの認識はある。ただ、西側社会が問題視するのは、極右に扇動されるポピュリズムの台頭だ。対照的にプーチン大統領らは、プログレッシブ(進歩派)の勢力増大に伴う左傾化を、民主主義の衰退要因として見ている。

彼らは、多様なアイデンティティーによる政治参加を極度に求める「アイデンティティーポリティックス」から、かつての階級闘争を連想する。公平・平等な社会の実現を大義名分に大きな政府が実現すれば、20世紀の社会主義と同様の失敗を繰り返す、と考えているのかもしれない。
こうした考えを独裁者の思い上がりだと一蹴するのはたやすい。しかし、社会の二極化の原因を極右勢力にだけ求めるのも、ある種の知的怠慢ではないか。ウクライナの悲劇を繰り返さないために、専制国家の軍事力増強に寄与した経済のグローバル化の限界を直視し、謙虚な気持ちで今一度、我々社会のあり方を考え直すべきだろう。

こんな記事だが、世の中世界的にダイバーシティを標榜するのに、民主主義だけを正義とする主張にもいまいち戸惑いを感じる。世界も普通に生活する人間関係で、旨く機能していくことができないものかとつくづく思う。