’22.6.5
今日の日経朝刊の「文化時評」のコラムから、まんが「鉄腕アトム」の作者漫画の神様 手塚治虫の思いを知った。私の知る「鉄腕アトム」は、原作者の当初の意図とはかなり違ったイメージのようだ。

ウクライナ側がロシア側の戦車隊列を爆撃・・・・。ニュース番組でその画像が流れた瞬間、我を忘れて快哉を叫んだ。一方的な理由で攻め入り、市民をも容赦なく攻撃するロシア軍なのだから、これくらいは当然の報いと思ったためだ。
だが、ふと我に返って、テレビゲームのように軽々しく片付けてしまう自分に決まりの悪さを覚えた。

爆撃されたロシア軍戦車の乗組員にだって、親や兄弟もいれば、故国に残した恋人や妻・幼子さえいたかもしれない。中にはこの戦争の妥当性に疑問を内心抱く者もあっただろう。戦争は、こうした個々の事情や理非とは一切関係もないまま、攻める側と責められる側双方に惨禍をもたらす。
旧ソ連と米国が演じた1962年のキューバ危機の翌年、アニメ版「鉄腕アトム」の放送が始まっている。

ファンには知られているが、人気漫画「鉄腕アトム」は長編科学漫画「アトム大使」を前身にしている。原点と言える作品でのアトムは、大戦争を防ぐ平和の使節という役どころだ。
人間とうり二つの宇宙人たちが長い漂流の末、地球に漂着する。人間一人ひとりに、本人そっくりの宇宙人がいるという設定。地球側は混乱しつつも共存を探るが、食糧難ほかの問題から、あつれきが生まれ、宇宙人を排除しようと動き出す。

一斉に反発した宇宙人は南極に立てこもり、人間側と一触即発の危機に。戦争を回避するため、平和の使者として交渉に向かったのが、ロボットのアトムだった。人間でも宇宙人でもないという属性が、どちらにもくみしない中立性と信頼を担保。アトムは誠意と話し合いで和平を勝ち取る。
連載された51年はまさに敗戦国ニッポンが占領下から国際社会への再デビューを果たそうとサンフランシスコ講和条約の調印に動いていた時期。折から特使や全権委員が盛んに往来していた。
「戦後の復興を一日も早くと、みんな願っていたわけですから、夢を与えられるようなものが描きたかった」と手塚は創作の意図を語っていた。半面で、生みの親である科学者に遺棄されるというアトムの孤独は、戦争で親や兄弟を亡くした子どもたちの苦労とも重なりそうだ。

アトム大使の第4話でようやく登場するアトムは、最終話にいたるまでむしろわき役に近い存在で、圧倒的な力をもって悪と戦う「正義の味方」という後年のイメージとは異なる。
手塚は生前インタビューに答える。「やたらに正義の味方とか、バラ色の未来社会なんていうふうに逆に誤解されちゃってるけど、本当はそうじゃないんです。もっと寂しいものを書いてるつもりなんですがね」
鉄腕アトムは間違いなく手塚の代表作だが、手塚自身は独り歩きをし始めたイメージに屈折した思いを抱いていた。ロボットを鏡に、人間界の対立や差別などの不条理を映し出す。それが手塚のねらいだったようだ。
今回のウクライナ侵攻では、人工知能が兵器の精度向上や情報戦に貢献していることが強調されている。いっそ発想を切り替えてAIを戦争j回避に役立てることはできないものか。


とまあこんな内容のコラムだ。最後のくだり、人工知能(AI)を戦争回避に使うなんぞは全く情けない話だ。
今度のロシアとウクライナの戦争は「ハイブリッド戦争」だといって、これからは情報機器の併用が重要だと盛んにいわれる。
とにもかくにも人間がコントロールできないものは、作ったり使ったりしてはいけないということか。