’22.7.29
最近の新聞記事に頻繁に出ている言葉に「国葬」がある。安倍元首相を国葬にするとか、国葬に反対だとか言う記事だ。8月初めの臨時国会は、この「国葬」で与野党の論戦があるらしい。
どうもこの元首相、大事な国の方向を決める国会議論より、個人的問題で国会の貴重な時間を潰す人だ。「モリカケ」に1年間国会を空転させ、その後は「桜を見る会」そして死んでからは「国葬」で国会を振り回す、そんなイメージを持ってしまう。

最近の言葉に「シン」と言う訳の分からない言葉がはやっている。「シン・ゴジラ」だとか「シン・ウルトラマン」だとか、ゴジラやウルトラマンと何が違うのか全くしらない。今日パクる記事も、「シン・国家資本主義」というタイトルがついている。
最近「ラムの喫茶室」でも取り上げたことがちりばめられた記事だったので、パクることにした。

資本主義の下では、企業は市場原理の下で競争する主体、一方国家は公共財を提供する主体であり、何らかの理由で市場に問題が生じる場合以外は市場に介入しないとの役割分担がなされてきた。
ところが新型コロナウイルス禍、気候変動問題、ロシアのウクライナ侵攻、中国の台湾への脅威など、我が国経済を取り巻く環境が激変し、双方の役割や関係に変化が生じてきた。

TSMCの工場建設には巨額の補助金が提供される。GX(グリーントランスフォーメーション)への投資として150兆円の官民投資や、世界に伍する研究大学の実現に向けて財政投融資の原資とした10兆円の大学ファンドが動き出す。
国家が財政支出という形で自ら投資の音頭を取り、経済安全保障の名目でサプライチェーンに直接関与する動きは、シン・国家資本主義ともいえよう。

バブル経済の破綻後の我が国は、カンフル剤と称して数次にわたる減税と公共事業の追加など拡張的財政政策を実行してきた。しかし効果は一時的で、民間の創意工夫意欲やアニマルスピリットは低下し、潜在成長力の弱体化につながった。この反省を踏まえず、再び膨大な財政資金をつぎ込もうとしている。
背景にあるのは、「国の借金は国民の資産なので、インフレが生じない限りいくら借金をしても大丈夫」という現代貨幣理論(MMT)に影響を受けた考えのようだが、次のような問題がある。

まず、国が借金して行った公共投資の多くは非効率で資産価値は毀損している。つまり、「国の借金は国民の資産」という認識は間違っているという事だ。
次に、欧米で現実にインフレが生じ、円安・資源高などで我が国にも波及しつつある中、インフレ懸念が生じた場合への対応が不明確である。財政支出を削減して対応するというのであれば、予算の半分を占める社会保障費のどこを減らすのか、いつだれがどのように決定するのか。

かつて我が国は、「国債は国家の借金ですが同時に国民がその貸し手であります」として戦費を大量の国債で賄い、戦後のハイパーインフレにより紙切れ同然になったという事実がある。シン・国家資本主義にはどこかきな臭いものを感じる。

パクリ記事はここまでだが、国家資本主義とシン・国家資本主義の違いが分からない。まあそれはどうでもいいとして、最近の経済記事は日本を引っ張ってくれた企業の元気なさを感じる。企業の貯蓄は積みあがっているが、設備投資や社員の賃上げには一向に金を使わない。
そんな企業を見て、知恵もない政府が企業を手助けしようというのが、昔の知恵も元気もあった政府が企業を支援した国家資本主義と違うからシンと付けたのなら納得する。いまだ日本はデフレマインドから抜け出せないで、形だけはインフレ状態だといわれる。
「責任は俺がとるから、政府も企業もおもいきったことをやれ」と言うシン・田中角栄が出てこないいものかと思ってしまう。