’22.8.12
明日はお盆の入り、彼岸に旅立った故人の霊が帰ってくるといわれる。今年亡くなった立花 隆さんのドキュメンタリー番組で次のようなことを言っていた。
立花さんが言うには死後の世界はない、死人の肉体はゴミと同じで朽ち果てていくのみ。よって死体はゴミとして処置して欲しいというようなことを言っていた。この理屈から言うと、霊が帰ってくる仏壇は不要という事になる。

今日の朝刊にお盆になるとよく宣伝している「仏壇のはせがわ」の広告が一面を使って載っていた。キャッチコピーが「仏像が美術であるように。」というもの。仏壇の広告だ。
この広告、建築家の隈研吾氏とコラボして完成させた仏壇の広告だ。仏壇の写真も掲載されていたが、縦長のシンプルなデザインだ。仏壇と言えば田舎の大きな部屋にでんと据えられた、黒漆に内側は金箔を貼った豪華な仏壇を思い出す。寺院の欄干や斗供のような装飾に、仏像が鎮座する豪華なものだ。

今はシンプルで住宅事情にあったこじんまりしたものが人気のようだ。我が家もご多分に漏れず、小さなシンプルな仏壇がリビングにある。霊界があるかどうかは個人の考え方で、故人への思いを祈りと共に持つには何らかの対象物があった方がいいと思う。
私も毎朝仏壇に向かって祈っているが、小さな仏壇も祈りの回数と共に箔がついてくるように思えるから不思議だ。単に古くなっているだけだろうけれども。

我が家の仏壇も、家具などと同様実用に供しながら装飾品としてリビングに置いてある。装飾品である以上、私の美意識(そんな大それたものではないが、個人の好みがある)に叶ったものであって欲しいと思って選んだ。
毎日見続けるものだからそれなりの希望もあって少しずつ変化して、大体落ち着くところに落ち着いた感じだ。一番こだわったのは祈りの対象物だ。故人の写真、お骨、そして今は故人に代わる仏様が祈りの対象になった。浄土真宗だから、仏様は阿弥陀如来様となった。

ネットで購入した阿弥陀様だが、誠にいい顔をしている。手は印を結んでいるそうだが、我が家の阿弥陀様は左手に何か捧げ持っている。何の箱だか知らないが見た目何を持っているのかわからないので、真珠の玉を捧げ持つようにした。このあたりはもはや自分で仏様を彫っているような錯覚だ。仏壇も今や目立たないようで存在感のある家具のようなものだ。