’22.9.21
日本が「一億総中流」と言ってたのは何時頃だったか。先日のNHKスペシャルという番組で、今や「一億総中流」が崩壊しているというドキュメンタリーを放映していた。終身雇用、年功序列の昔からの慣行から脱却しないと日本経済は持たないと警鐘を鳴らす。
戦後77年、平和で平等な日本を痛感する。アメリカのように想像もつかないような大富豪がいるわけでもなく、スラム街でもはや浮かばれない生活困窮者がいるわけでもない。平和で平等な日本、地球が日本だけならそれでいいのだろうがそうでないからどうしたものか。日経「大機小機」のコラムから。

大学に入れば努力せずに卒業できる。上場企業に入れば一生安泰のように思える。その上場企業の株価がさえなくても日銀が買い支える。国の借金が山済みしても金利はほぼゼロ。そして平和憲法は不変である。
農地改革と手厚い保護を経た現在、耕作放棄地が目立つ。米作はジリ貧である。ブランド作物が希望の星ながら、零細経営に直面する。これと同じ現象が日本社会全体を覆ていないだろうか。

本来、大学卒業者に求められるのは考える力である。そのベースになるのが総合的な知識であり、デジタル的な素養である。人口減少時代における大学の使命は、この本来の卒業者を輩出することなのに、現実の安易な卒業では、高校卒よりも少し大人びただけの者しか社会に送り出せない。4年を無事に過ごせば、バイトに明け暮れても卒業させようという平等感が怪しい。

そんな大学卒業者を採用する日本企業全体としては、優秀な人材が当面限られるのだから、その貴重な人材を厳選した事業に配置することが求められる。つまり資本コスト的に採算が合わない事業の整理と統合であり、独自性の高い事業への挑戦である。
これを個別企業から見ると優勝劣敗に結び付く。最悪の場合、経営が破綻する。そんな過酷な世界を大多数の企業は望まないし、従業員も同様である。とはいえ視野を海外に転じると、もっと厳しい競争がある。せめて国内だけは平和にと願ったところでむなしいだけ、政府は企業をして優勝劣敗の世界を直視させなければならない。

その政府に目を向けると、国民の金融リテラシーを高めようとしているが、そこに異変の種がある。金融リテラシーの基本の一つは、「借金は身の丈をわきまえて」である。では政府が抱える現実の借金の山とは何なのか。政府が毎年借金を積み重ねていては、金融リテラシーとゼロ金利を国民に説けない。
内なる平和と平等を謳歌する日本は隙だらけである。軍事的な危機を横に置いたとしても、経済的に敗北を味わう危機が迫っている。貿易収支の赤字と円安がその警鐘だろう。

だからどうすればいいのか、ほとんどの識者のコラムなり話はここで終わっている。世界各国の競争の激しい中、為政者に頼ってても解決しないのは目に見えている。選挙にもいかないで、内閣や首相の支持率がどうだとか、国民のための政治ができてないといっても空しいだけだ。
日本を支えてきた企業、ひいては国民が頑張らないといけないのでは。そのためには終身雇用や年功序列のぬるま湯から出ないといけないのでは。空洞化した国内産業の穴埋めをし、へらへらと楽して稼ごうなんて精神をすてて、汗水たらし脳みそから汗を出すような働きが必要なのではないか。と思う、そうしないと私のような年寄りは生きていけない。