’23.1.8
日経の「夕刊文化」というコラムに、宇宙物理学者 池内 了氏のインタビュー記事が載っていた。宇宙物理学者の幸福論という見出しで、幸福論という言葉に目が行って読んだがなぜか今日のタイトルは「科学と技術」になっている。

話題は全く違うが、このところ岸田首相の荒井首相秘書官の同性婚をめぐるオフレコと断った記者への回答が問題になって更迭させられた。首相秘書官でなければ、一個人の感想として聞き流されるのだろうが、政権を担っている団体の一員だから団体の方針に反するということで首になった。
どうも世の中、世界の大きな流れの中で行動しないと、袋叩きにあってしまうような感じがしてならない。その大きな流れも上流方向と下流方向の流れが、世界という川の流れの中で起きているからややこしい。
上流方向の流れに居るものは、そっち向きに進まないとつまはじきにされる。そのことへの違和感を感じて仕方ない。

テーマに戻って、幸福のために科学技術と人間の関係はどうあればよいのだろうという点だ。インタビューでは科学と技術の違いを定義する。
科学は自然哲学にはじまり、役に立つかを考えず真理を探求していくものだと言う。それに対し技術は科学を適用して、人間にとって便利で能率を上げるものをつくる。人間が楽しく思うのは科学の方だと言う。
極端な話、科学が世の中の役に立とうなんて思うなよ。役に立たないけれど、文化としての意味はとても大きいのが科学。物事をじっくり考える科学的な精神を大事にする必要がある。

日本では科学技術と一言で言われるようになり、科学の側面が薄れてしまった。役に立つことが強調されるのは、国のため、その成長のため・・・やさしくいえば「みなさんのために」と、日本では他人との関係を常に意識することも影響している。個人の幸福よりも「みんなのために」という意識が行き過ぎれば、閉塞感につながる。
時代の変化が人間の発想jまで規定していくことを恐れています。特に、子どもたちのことを。今の子どもたちは情報がいきわたり、考える暇もなく刷り込まれてゆく。許容するばかりでなく、拒否する精神を持つことが現代の社会には必要ではないかと考えている。

コラムの内容から、科学と技術は何となく理解できるが幸福についてはいまいち理解しにくい。日本人の精神構造にあるおもいやり、他人への気遣い、それが自分への幸福感を薄めているのではないかということなら何となく分かるような気がする。
そういわれてみれば、自分のことしか考えてない輩は金持ちになってやけに幸せそうに見える。それに引き換え自分は不幸そのものか。