’23.2.25
タイトルは養老孟司さんの新刊のタイトルだ。「ものごとを分かりたいと思い、一生かけてきた」85歳になる養老先生がまとめた本だ。「ものごと」はいろんなことを指しているんだろうが、人のことが分かることが生きていく中で一番大事だと思う。
もうだいぶ以前のことになるが、人のこと、その人の気持ちになって考えることができればいいし、年を取るとそのことができるような気分になったことがある。そんなにたやすいことではないのだろう。

新刊を読んでその読後感を書けばいいのだが、解説を読んでその言わんとすることを知る方があんちょこで真によい。なまじっか読んで理解力の不足から訳が分からなくなるよりもいいのではと勝手な理屈から、新刊書の解説記事をパクってみた。

「今は確固たる自分を持てといわれて、みんな困っているのでは」。日本人は従来、自らを移り行く自然と一体のものとして捉えてきた。意味は違うが確かに欧米の真似をして、個性とか自我をはっきりさせることを良しとしてきたきらいがある。
「自分を固めなきゃというのはストレス。変化するものと捉え直せばらくになる」これはいい加減な、信念のない人間を肯定しているのではない。置かれた環境によって考え方も違ってくると捉えるべきだろう。
自分すら移り変わり、捉えがたいものなのだから「言ってることが相手に通じるなんて、奇跡みたいなのも」と喝破する。とくにSNSやリモート会議といった、場を共有しないコミュニケーションは難しい。
「同じ人でも、見る状況が変われば理解の仕方も違ってくる。ジジイが何かぶつぶつ言っている、ぐらいできいてもらえばいい」養老先生の配信している講和や対談をそのようにもいっている。

人や動物と仲良くなるのは(ここで動物をだすのは、長年飼っていた猫がいたからだろう)、理屈ではない。「何んとなく波長が合うということがある」。その状況を「共鳴」とよぶ。
気の合う仲間、気の合う人というのがあるが、なぜその人とだけは気が合うのか理由をきかれても「ただなんとなく」ぐらいしか言えない。「共鳴」しているからだろう。
養老先生でなく私が思うには、「気が合う」とは人に気を配っている人だからとおもっている。調子を合わせるという意味ではない。人の話を聞き、自分の意見を言う、ただそれの繰り返し積み重ねではないかとおもう。

貴方の話はわかる、がそういうことではなくこうだよと言うひとがいる。同じ大人同士の会話ではこれは「共鳴」しないからだろう。
最近のテレビの時事問題は「ウクライナ戦争」の解説が多い。戦争の行方の解説やなぜ戦争が起きたのかの解説だが、考えてみればおかしな話だ。「ものがわかる」の類になるのだろうが所詮ある人間の起こしたこと、解説してみても何の役にも立たない。話が分かれば争いは起きないだろう。わかるということは難しい。