’23.5.29
メタバースが一気にすっ飛んで生成AIが中心になるだろうというコラムを、数か月前のコラムで読んで「セカンドライフ」のページに上げた。このところの新聞は、この生成AIの記事がよく出ている。私も試しにChat GPTなるものをパソコンに取り込んで試してみた。結構役に立つ。

来週大学時代のZoom会合があり、今年はリアルで会合をしようという相談をする。私はいくつかの条件を入れて、「Chat GPT」が何んと応答するか、できればその応答内容を意見として言ってみようと考えていた。
そんな時今朝の日経の「創論」と言うコラムの慶応教授 山本龍彦氏の記事を読んだ。「生成AIが問うもの」という大見出しで、氏の見出しには「人間の自己決定守れるか」とあった。どきっとして、その記事を読んで大いに納得するところがあったのでパクる。

AIが人間社会に与えるインパクトは従来、動力機械の利用、移動の高速化、企業の発達、企業で働く労働形態の広がりなどで人間の行動様式を大きく変えた19世紀の産業革命の類推で語られることが多かった。
しかし、あらゆる問いに答え、事柄を言語で表せる生成AIの登場で、その類推ではAIのインパクトの深さを捉えきれなくなったように思える。もちろん生成AIは事務作業や創造活動など人間の行動様式も変えるだろう。ただ、もっと重要なのは意思決定の過程、つまり人間の思考様式を生成AIが直接変えるかもしれない点ではないだろうか。
特に、AIを使いながら個人が下す判断が社会全体の意思の形成と決定に反映されることで、社会の統治プロセスがAIの影響を受ける可能性に注目したい。

社会全体の意思決定のプロセスが根本的に変われば、産業革命よりはるか前、ルネッサンスと宗教革命で起きた欧州社会の大変革以来になる。
中世の欧州では、あらゆることは神が決め、人間は神の決定の解釈者であるカトリック教会に従うべきだという世界観で人々は生きていた。人間が自分の理性で判断し意思決定することは、とちらかというと「悪いこと」だった。
その後のルネサンスと宗教改革を経て初めて、個人や社会のことは人間が自らの意思で決める、つまり人間中心の世界観が普通になった。

この大変革により、個人の意思決定を尊重する原則、自己決定の集積としての民主主義、それを制度がした近代立憲主義と言う近代の統治原理の基礎が確立した。それ以来今日まで、産業や技術の革新があっても、人間が自己決定に基づいて社会を統治するという原理は揺るがなかった。
だが生成AIが意思決定の過程に深く入り込むと、人間は自律的、主体的に意思決定できる存在だという当然かつ強固な前提も揺らぎかねない。

これに対し欧米の動きに共通するのは、いかにAI社会で人間の自己決定権を確保するかという、人間中心主義の理念だ。
日本は欧米に比べ、AI統治の基本理念を明文化する努力が遅れている。政府や業界のガイドラインのようなソフトな規制を導入しようという議論もあるが、それでは社会の基本的なルールづくりに市民が参加するという民主主義のプロセスが省かれてしまう。国会での議論が必要ではないか。

以上のような話だが、生成AIの影響や民主主義の理念を改めて知る機会となった。国会での議論は、国民の意見交換の場であることを議員の皆さんは再認識して、生成AIの取り組みを考えてもらいたいと思う。