’24.1.5
タイトルは「日経」明日への話題のコラム、今年このコラムを半年書く哲学者森岡正博氏のタイトルだ。正月でもありちょっと考えていたことでもあって、この記事をパクる。

「哲学とは生きる意味を考えることですよね?」とよく聞かれる。だが、大学に行って哲学の講義を受けても、そのようなことは教えてもらえてない。教員たちは過去の哲学書をたんねんに読んだり、外国の哲学者を研究したり、異様な思考実験に熱中したりすることが多いのだ。
しかし最近、「人生の意味とは何か」を正面から考えようという動きが、世界の哲学界で起き始めている。この哲学ジャンルを「人生の意味の哲学」と呼ぶ。人生に意味があるかどうか、あるとしたらそれは何なのかというのは、人間が生きていくうえでとても大切な問いだからである。

もちろん哲学であるから、「人生の意味とは×××である!」というような一方的な説教をするわけではない。そうではなくて、人生に意味があるとはそもそもどういうことなのかじっくり考察するのである。
例えば人生の意味とは、社会に何かの貢献をすることだろうか。もちろんそのように貢献した人物が、「たしかに自分は社会貢献をしたが、だからどうしたというのだ?自分は人生を仕事にばかり捧げてしまい、本当に大事なことを何もできなかったのではないか」と悩むことはありうる。

自分の人生にとって本当に大事なことは、いったい何なのか?そこに冷徹な哲学のメスを入れていくのが、人生の意味の哲学なのである。

とまあこんなコラムだ。「人生の意味」を哲学的に考えるとき、「冷徹な哲学のメス」を入れていくことが大事だと言われるが、「冷徹な哲学のメス」を身に着ける哲学の勉強が必要になる。
ということは、所詮私のような哲学のなんであるかを全く知らないものとしては、考えても無駄ということなんだろうか。考えてしまう。


1月19日 「人生の意味は誰が決める」 コラムの続き
自分の人生に意味があるかどうかは、その人生を生きている本人が決めればいいことだろうか。それとも、誰の目から見ても意味のない人生というものがあるのだろうか。これは悩ましい問題である。

日本で問いかけると、多くの人たちは次のように答える。「自分の人生に意味があるかどうかを決めるのはその本人であって、他人からとやかく言われる筋合いのものではないのだ」と。
だが、現代の哲学のあいだでは、そのように考えない人の方が多いと言えるだろう。スーザン・ウルフは、一日中マリファナを吸うことや、クロスワードパズルを延々とやることは、その人の人生に意味を与えないと強調する。
いくら本人が好きでやっているとしても、客観的に見てそれらの行為には価値がないのだから、人生における意味もまた存在しないというのだ。
これはつぎのような問いへとつながっていくだろう。「この世にはまったく意味のない人生というものがあるのだ。たとえば、ヒットラーや、オーム真理教の教祖の麻原は、この世に悪しかもたらさなかったから、その人生はまったく無意味なのだ。あなたは、もし仮に麻原が自分の人生には大きな意味があったと言ったとしたら、それを認めるのですか?」

皆さんはこの問いかけにどう答えるであろうか。「彼らの人生にも意味があった」と胸を張って言えるだろうか。もし言えないとすれば、あなたは、「誰の目から見ても意味のない人生」というものがこの世にあるのだと、心のどこかで認めてしまっているのではないか。


2月2日 「人生の問いと哲学」 コラムの続き
まず、「人生に意味を与えるものは何か」というのは、人がどんな生き方をしたときに人生は有意義なものになるのかという問いである。
それに対しては、社会に貢献するような仕事ができたときに人生は有意味になるとか、自分の設定した目標を達成できたときに人生は有意味になるとかの答えが提案される。

次の、「そもそも人生が存在する意味は何か」であるが、これは深刻な問いを含む。若者と話していると、「いつか死んでしまうのに、どうして生きないといけないのですか?」と聞かれることがある。あるいは、「そもそも人生には意味なんてないし、宇宙が存在することにも意味がない」と言ってくる人もいる。

現在のプロの哲学者による研究の多くは、この後者の問いに正面から答えているとは思えない。私は人生の意味の哲学を、これらの問いにきちんと答えられるものにしないといけないと考えている。


2月8日 「人生の意味」の多様性 コラムの続き
人生の意味は何かという問いは、すべての人に開かれたものである。だから、それについて哲学的に考えるときも、人々の多様な生活経験をベースにしながら思索を進める必要がある。ところが、実際はそうなってはいない。
21世紀のこの分野の研究を推し進めたのは、欧米の大学教授たちである。したがって、彼らのハイソサエティの道徳やエリート的な趣味が、どうしても議論に入り込んでしまうのだ。
例えばトルストイの小説をただ書き写すだけの生活や、クロスワードパズルを延々とやることは、人生に意味を与えないと彼らは言った。
ではどういう生き方が人生に意味を与えるのかというと、芸術活動をすること、世界に対する知識を拡大すること、自然保護をすること、卓越した人間になること、自分の能力を開発すること、などであるというのだ。

私は、これらのリストは著しく偏っていると思う。なぜなら、それらの活動を行うことができるのは、文化的資本と経済的余裕に恵まれた特権的な人たちであり、自分のために自由時間をたっぷりと使える人たちに限られるからである。
生活するのに精いっぱいで、自分を高めるための時間も精神的余裕も持てない人々の心に、これらの人生の意味の哲学は響きにくいだろう。
人生の意味の哲学に最も必要なことのひとつは、多様性に富んだ「人生の意味」を追求できるための社会的な基盤を全ての人が享受するために、この社会をどう変えていけばいいかを考える政治哲学である、と私は考える。


3月22日 「反出生主義への共感」
反出生主義の講を一つ?抜かしたようだが、人生に苦しむようだといっそ生まれてこなければいいという主義。その続き。

私個人は反出生主義の哲学には批判的であるのだが、しかし私の心の中にも反出生主義の考え方に強く共感する部分がある。
どうして私はこんな苦しみに満ちた世界へと生まれてこなければならなかったのか、どうして私たちは次の世代を生みk続けないといけないのか。それを考えると、そもそも人類は最初からいっさい生まれてこないのがいちばん良かったはずだという思想に導かれていきそうになる。
これは心理学的なセラピーによって解消するような次元の問題ではない。この世にい生まれてくる意味はいったい何なのか、そもそも生まれてくる意味はあるのかという究極の哲学的問題が問われているのである。
反出生主義に惹かれて来る学生たちは、このような本物の哲学の問いに正面からぶっつかっている。