’24.3.9
日経夕刊のコラムから。作家の小池 真理子氏が「あすへの話題」に、老いについて書いていた。年を取ることについての書き物はいろいろある。みんな納得することばかりではあるが、今回もそんな一つ。

老いとは何なのか。どれほど魅力的だった人でも、例外なく皺ができ、皮膚がたるみ、見た目が著しく変貌する。入れ歯だのあちこちに不具合が起こる。物忘れが増える。動作が鈍くなる。そして、その先に厳然と控えているのは、「死」なのである。

若いころは、公園のベンチで、高齢者が背を丸め、ぼーっとしているのを見かけても、老人が眠たそうにしているな、としか思わなかった。生命体である以上、誰もが老いる。
どうすることもできない哀しみや諦め、虚しさを抱え込んで、なお生きる。だからこそ、ぼーっとするしかなくなるのだが、当時はそんなことを想像できなかった。
だが、自分が老いの道に入ってみると、「高齢者」として社会的に漫然と「一括りにされることへの抵抗はもちろんのこと、感傷や千々に乱れる思いの数々に、日々、圧倒されていることがわかる。まるで思春期である。
先日も、死んだ者たちへのことをずっと考えていた。父、母、夫、友人、作家仲間、愛していた猫たち・・・・。膨大な記憶が洪水のごとく押し寄せてくる。
死と生は一本の線でつながっている。若かったころは活き活きとした命の真っただ中から死を見つめていたが、今は終末の側に立って生を眺めているような気がする。

こんな内容の記事だが、年を取ると時間もできいろんなことを考えるもんだ。凡人の私が考えることは愚にもつかないことばかりだが、やはり生きるということを考えることが多い。
若いころは、仕事や人間関係に囚われて人生のことなぞおよそ考えることはなかった。死ぬことは怖くはないが、苦しみたくないとも思う。行ったりきたり、同じことを考え思いながら毎日が過ぎる。