’24.5.18
ボランティアについては過去にも書いたが、サラリーマン時代の仕事はボランティアとは言わないだろう。しかし、仕事を何のためにやるかと聞かれれば「自己満足のため」と答えることがあるかもしれない。
現役を退いて年金生活に入ると(こういう言い方が未来にわたって使われるかは分からないが)、仮にボランティアごとき働きをする意味を訪ねられたら何と答えるだろう。私には「社会奉仕」ということは先ず言えない。そんな大それた精神を持ち合わせてはないから。

私もボランティアの何たるかを知りたくて、そんな活動の研修を受けたことがある。世の中には、誠にそうであろう言葉の意味に値する活動をしている人が存在することは認識する。尊敬に値するし、驚く。
私も退職後民生委員や今も町内役員をして、社会のまた地域の奉仕活動と言われるようなことをしている。が、これが「ボランティア」かと問われると、到底恥ずかしくって「はい、ボランティアです」とはいえない。

じゃあ、こんな貢献活動をどうしてやっているんだと聞かれると、行きつくところは「頼まれたから」せいぜいこんなところに落ち着く。社会や地域のために身をささげようというような、気高い精神は持ち合わせてはいない。しかしまだやっている。
つらつら考えて行きつくのは、やはり「自己満足」のためだろう。そうすることに「気が休まる」、「満足感を得る」、所詮そんなところに落ち着く。貢献することの満足感を感じるからだ。しかし、いつもやめることを考える。なんか義務感のようなものを感じるようになるからだろう。

そんなボランティアでも嫌な思いはしたくはない。余計な貢献活動をしていて、嫌な思いをするのは全く損なことだ。それほど人間ができていないことも痛感するが、好んで精神を傷つけるような不愉快な目に会う必要もない。
社会奉仕、地域奉仕をしていると、時にはそんな不愉快なこともあるが誠に損なことではある。しかし、そんな不愉快な感情もボランティアまがいの活動をしていないと遭遇することもない。これも人間修養のいい機会だと思うと、また生きていく糧になるのだろう。

そんなことを巡らせながら、ここ最近の毎日を過ごしている。これも愚痴のひとつだろう・・・。