私は歴史と地理、それと外国語がからっきしだめだ。地理は地名だとか位置関係がピンとこないし、語学は学生時代から苦手だ。英語はどれほど努力したか、いや結局努力してないのだろうが今だお遊びで英語が出てくると辞書に頼りきりだ。
歴史も時系列で頭に入っていればいいのだが、時代感覚が全くない。従っていま世界で起きていることが、どんな背景でそうなるのかの理解が全くできないでいる。
特に現代史の勉強をする機会がなかったので、新聞を読んでも何でそんなことが起きるのかの背景が分からない。
単純な疑問としてお恥ずかしいが、日本の民主主義がいつ始まったのかよく分からないでいる。天皇が象徴でなく日本を統治していたのは、今でいう覇権主義・専制主義ではなかったのかと漠然と思うような知識だ。
戦争裁判で日本が必死になった「国体護持」とは、日本の専制主義を守るにきゅうきゅうとしていることだ位な理解だ。第二次世界大戦を日本の戦争から言えば、「大東亜戦争」と言うのではないのかというくらいな知識である。
そんなモヤモヤした浅学な者ではあるが、今日の日経の朝刊に載っていた神奈川大の岩井克人特別招聘教授の記事は、そのあたりのことを書いているように思うのでパクってみた。
「中国やロシアは近代的な民主主義を否定」、「米国でもトランプ氏が議会や法秩序軽視」という内容の部分は割愛して、日本のこれからの使命を書いているところのみコピーした。
いま世界は大きく混乱している。だが、混乱の中で見えてきたことが二つある。一つは、私が好きに学問してきた戦後80年近い年月が当たり前のものではなかったということである。
かつて凡庸に見えた近代的民主主義は、個人の自由を最低限確保してくれる政治的体制である。それは必然的に到達する「歴史の終わり」ではなく、不断に目指し続けなければならない「歴史の目的」なのである。それは明日にでも、外部から、あるいは内部から、簡単に奪われてしまう脆弱な制度でしかない。
見えてきたことの二つ目は日本という国の使命である。西洋以外で最初に近代化に成功した日本もかつては現在の中国やロシアと同様、近代的民主主義を西洋的価値として否定しようと試みた。それが大東亜戦争を正当化した「近代の超克」の理念であった。
近代を西洋と同一視し、その世界支配からの東洋の解放こそ日本の世界史的使命であると唱えたものである。そして敗戦した。
いま日本の使命は異なる。西洋から極東と呼ばれたこの島国で、戦後80年にわたって近代的な民主主義が曲がりなりにも機能してきた。自由がなくては思考ができない。その自由を当たり前のこととして、私のような人間が好きに学問をすることができた。その事実が、近代的民主主義が西洋的な理念でなく、洋の東西を問わない普遍的理念であることの証である。
日本の世界史的使命とはどれだけ凡庸であろうとも、そのような社会であり続けること。そして、その事実を世界全体に向けて語り続けることにある。
と、まあこんな記事である。近代的民主主義とことわっているのは、近代的でない民主主義もあったのだろうか。戦前の日本は民主主義の国であったのだろうか。このあたりは依然モヤモヤしているが、近代民主主義が戦後の「押し付けられた日本憲法」であれ始まったのは確かなのだろう。
そしてこだわった「国体護持」の天皇制が、「象徴天皇」にすることで国民も何となく納得したのだろう。また敗戦国日本は、この押し付けられた憲法を日本人の総意で作り直すことで「敗戦国日本」でなくなるのだろう。
激しく動く2025年、我が国日本はどう動いていくのか、民主主義の国日本といえども実感の乏しい国民としては傍観するのみという感覚になることが寂しい。