いろいろな思いがあるが何もできないふがいなさ、そんな気持ちを落ち着かせる理屈はないものか。常々そんなことを思っているが、昨夕の日経「あすへの話題」で作家の
あさの あきこ 氏のコラムが目についた。ふに落ちる言葉が「人が人として生きる」、全文コピペする。
3月11日。あの震災から14年の春、岩手県大船渡市はまた、未曽有の災厄に見舞われた。多くの人たちが、完全に焼け落ちた家屋の痕跡に14年前の津波の痕跡を重ねただろう。
人が生きていく、そのことが、こんなにも困難をともなうものだという現象を私たちは目の当たりにしている。
そしてニュースにもならない、誰からも注目されないところで、呻くほどの困難に打ちひしがれている人たちが大勢いる。それも現実だ。見ようとしなければ、見えない。思わなけれれば、見えてこない。
3月11日が巡りくるたびに、わたしは東北を思いだすけれど、その日が過ぎても思いを持ち続けられるのか。自分に問う。
そして、持ち続けられない自分に溜息を吐いてしまう。神戸にも東北にも能登にも、ガザにも、ウクライナにも、ましてや、私の知らないどこかで呻吟している人たちに、心を馳せることを忘れていた自分に、なんだかなあと吐息をもらす。
今週、福島原発事故への東電旧経営陣の無罪が確定した。わたしは罪の有無を見極める力も資格もない。ただ、あの事故の罪を誰も背負わなかったという事実を知るのみだ。元副社長の2人に罪と責任を負わせて、それで済むという話ではないと、むろん承知している。それは社会や国といった大きなものが関わってくる問題なのだ。でも、個人の問題でもある。
どこに罪が、責任があるのか。考え続けること。忘れないこと。思いはせること。個人としてぎりぎり、そこに踏み止まりたい。でないと、人が人として生きる、その足元が崩れていく気がする。
こんなコラムだが、思うだけでいいのだろうかといつも思いながら何もできない自分に、どう納得させればいいのかのヒントになるような気がする。結果には個人の原因もある、これも重い言葉だが。
個人に責任があるのなら、個人がそんな結果にならないようにすることもできる。確かにそうなんだろう。