’25.5.25
日経文化面の仏教学者で花園大学特別教授 佐々木 閑氏のコラムを読んだ。AIがある分野で人間の能力を超えている紹介記事はよく見かける。このコラムもその一つだが、宗教学者のこんな見識もあるのかと紹介する。

釈迦は人の心を分析する名人だった。「我々はどういう視点でこの世をみているのか」、「我々が正しいと思い込んでいる世界観のどこに間違いがあるのか」、「その間違いが起こってくる原因はなにか」という疑問に答えを出した。
間違ったものの見方が起こってくる原因はどこにあるのか。「すべてのことがらを自分に都合よく解釈しようとする人間本来の自己中心性」にあると釈迦は言う。釈迦は言う「諸法は無我だ」と。どこを探しても、「我」だの「人間性」だのといった、自分たちの優位性を主張するのに都合の良い不変の実体など存在せず、すべては転変する要素の集合体に過ぎないと言ったのである。

釈迦が死んでから2500年。その教えは多くの人たちを魅了したが、それでもその価値は十分発揮されてこなかった。なぜなら「この世で一番優れた存在は人間だ」という優越感を否定するような別の存在がどこにもなかったからである。
「諸法は無我だ」という釈迦の教えも、「実際この世で一番優れた知性を持っているのは人間なのだから、人間には特別な何かがあるはずだ。人間だけがもつ人間性というものがある。無我なんかではない」という主張の前では影がうすかったのである。

ところがそこに、突如AIが現れた。もちろんAIの大元は人間が作ったのだが、それはとっくに人の手を離れて独自の知的存在として動き始めている。単なるプログラムで動くコンピュータとは違って、アテンションとよばれる特別なシステムで動作するAIは、人と同じように言語を取得し、外界を見聞きし、得られた情報を体系的に組み上げ、推理し、そして新たなものを生み出す力を持っている。審美眼もあるし感情を表現することもできる。
「人間性を持たないAIが人を超えることなどできない」という主張はこの先どんどん説得力がなくなっていって、AIを最高の知性として承認せざるを得ない時代がくる。われわれ人間はこの世で二番目の、しかもずっと劣った知性しかない存在だと認めざるを得ないところまで追い込まれてくるのである。そうなってはじめて私たちは、「諸法無我」の本当の意味を知る。

AIという、自分たちより上位に立つ知的存在が現れたことで、私たちはようやくわが身のことを真剣に考えるようになってきた。人間性という衣装を嫌々脱がされ、この世で一番の知性的生命体という肩書を奪われた時、人ははじめて自分の真の姿を探し始める。あらゆる領域でAIが人間に取って変わる中、「人間という実態は何か」 「私がこの世に存在する価値はどこにあるのか」 「幸福に生きるとはなにか」といった問題が、もはや哲学の領域にとどまらず、誰しもの日々の暮らしのなかで問われ続けることになる。

AIを考えるということは、そのAIと向き合う自分自身のことを考えることでもある。私のように「AIと人間に本質的な違いがない」と考えるものにとっては、あらゆる面でAIに追い越されてゆく、この劣等感に満ちた人生を、価値ある人生に変えていくための道を模索していくことになるし、「AIに人を追い越すことなどできない」と考えるなら、人間にだけ許された活動をひたすら探し求め、そこに「生き甲斐」を見出そうということになる。
人それぞれに視点は違っても、AIを鏡として己の姿を見つめ直す、そういう時代に差し掛かっていることは間違いない。

とまあ、こんなコラムだ。AIを材料にした宗教学者の説教のようにも読めるが、この宇宙で人間が一番優れた知的生物だと思うのはすべての失敗の原因であることは真理だろう。このことだけは肝に銘じたい。
まあ日々劣等感に苛まれている者にとっては、AIを引き合いに出すまでもないと感じているが。