’07.5.23
我が家にはラムとサリーの二匹のラブラドールがいます。ラムとサリーの性質や能力の違いについて、何回かこの喫茶室でも書いたことがあります。
犬に冗談が通じるか、この二匹を見ているとラムには通じそうにないのですが、サリーには通じそうな気がするのです。
実際サリーには、突然後ろからワッと脅かし半分声を掛けてびっくりさせてみたり、「あれっ、ネコが来たかな!」なんて注目させて、その気になって集中するサリーに「冗談だよ」なんて頭を撫でてやることがあります。サリーにとっては真に迷惑なことでしょう。
ほんとに犬に冗談が通じるのでしょうか。最近「犬の科学」(スティーブン・ブディアンスキー著 築地書館)を読みました。少し長くなりますが、こんなことが書いてありました。この本のメインテーマのように思いますので、ご紹介します。

犬の科学が進めば、犬にもよいことがある。フワフワした手触りの毛の生えた小さな人間として扱われ、優しくされることや、愛情を受け入れることが仕事で、手作りのケーキを食べさせられ、誕生日には小さな帽子をかぶせられる犬たちが幸せだとはいえない。
そんな犬たちは必ず、飼い主の不条理な要求に悩まされている。犬を人間と思い込んでいる飼い主のせいで、被害妄想におちいっている犬は多い。

敷物の上に粗相をした犬に罪悪感があると思い込んでいる飼い主。自分自身の恐怖感から犬をいたわり、慰め、安心させる飼い主。自分を敬うよう死に物狂いで犬に要求する飼い主。このような飼い主に対して、犬はしばしば適応できず、惨めなことになる。

粗相をしてしまった犬を、たとえ数秒後であっても、罰するのは意味がない。なぜなら犬は、その状況では罰と粗相を関連づけられないからである。
犬は、目の前で展開される出来事の間の関連性を必死で考える。そして、飼い主が家に戻って敷物の粗相に気づくたびに罰せられる犬は、飼い主の帰宅を恐れるようになる。

雷鳴におびえて震えている犬を撫でて優しい言葉をかけていると、犬は震えていると撫でてもらえることを素早く学び、しょっちゅう震えるようになる。
飼い主が溺愛すると、犬は威張り散らすお山の大将になる。
このような特性は、狼の社会構造に由来する。もっと悪い場合もある。飼い主の溺愛ぶりが完成の域に達すると、犬は神経症的な依存症になり、少しでも飼い主が犬から離れるとヒステリックになる。

犬の理解力、犬の動機、犬の知覚、犬の本能によって、あるがままに犬を眺めることは、彼らの真の性質、能力を認めることである。
逆に、われわれの自己中心的で貧しい想像力によって、われわれと同じ存在とみなすのは、そうあってほしい幻影をもとめているということだ。

人間は犬と仲間になって初めて、自分がわかることもある。私はそのことを感謝している。犬たち(あるいは本当は、犬たちの進化というべきだあろう)は、われわれの鎧のほころびをみつけてくれるのだ。


このくだりを読んで、犬に冗談が通じると考えることの愚かさを知らされました。ラムが原っぱに下りていつも雑草を食むので、そのことをいくら叱っても止めないので、ラムは馬鹿犬だと思うことも止めることにしました。
あまりにもラムやサリーを人間と同じように思っていたことか、いままでの私のこの子たちに対する接し方を思い起こしてみると、思い当たることばかりです。

ラムやサリーは人間ではないのです。犬であることを認識し、犬の真の性質、能力を認めてやることが本当にラムやサリーを愛することになることをあらためて認識しました。