世の中には数学や物理のように、条件によって起こる現象がはっきり予測できる場合と、社会現象のように予測が困難なことがあります。正解が唯ひとつの世界と正解が複数考えられる世界があると言ってもいいでしょう。(「理解」のテーマでも触れています。)
数学者でエッセイストであるお茶ノ水女子大 藤原正彦教授のインタビュー記事を読んで、その二つの世界のことを一層興味深く考える機会を持つことができました。

藤原正彦教授は文学者の新田次郎と藤原ていの次男として生まれ、数学者でありながら国語教育の重要性を教育界に熱心に説いておられます。小学校では読み書きそろばん、即ち一に国語、二に国語、そして三に算数が大事で、パソコン教育は必要ないとまで言い切っておられます。
母国語はあらゆる知的活動の基礎で、思考には言葉が必要で語彙が少ないと、思考が深まらないとまでいいます。小学校時代はとにかく本を沢山読んで、良い読み物を通して家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛を学んでこそ国際人になれると言われておられます。
一般に論理的思考には数学がいいと言われますが、数学の論理は二つしかない。正しいか誤りかの二つだけです。しかし、私達が暮らしている世の中は、絶対正しい、絶対誤りというのはなくて論理的に正しいものが沢山ある。私達がどの論理を選ぶかは、数学の論理でも物理の論理でもない、その人の持つ情緒であると言っておられます。
もののあわれがわかり、美しさに感動する情緒教育こそが、世の中の正解を見抜く総合判断を養ってくれる。この情緒教育を行うには、国語の力が欠かせないとい言うのです。

昔、暴走族の悪でならしていた若者が、歳を経て立派な社会人になった話しをテレビで取り上げていますが、これとても年齢を重ねて行く過程で、自然に学んだ情緒教育の結果だと言ったら言い過ぎでしょうか。
このところ二度ほど、部長といわれる総合病院の医者と話す機会がありました。会話しての印象は、患者の訴える話の半分も聞いていない、いや理解していないのではないかと思いました。
確かに訴える患者の内容は、抽象的で情緒的かもしれません。しかし医学の専門家でない患者の訴えとしては、いまの状態で感じる精一杯の症状を報告しているのであって、むしろその中から患者の病巣を見つけ出すのが、医者の仕事ではないかと強く感じました。
最近の若い医者は、患者との会話で患者の訴えを旨く理解できないことが問題になっています。医学生の教育過程で、患者からの聞き取り訓練が教育過程にないことが分かり、急遽カリキュラムに組み込むことになったということです。これこそ対象療法といわれるもので、その根本の患部は専門教育はしていても、人間としての情緒教育がなされていなかったことに、問題があるのではないでしょうか。

言葉を覚えるのには、幼児期の言語環境が大きく関係すると言われます。自然に母国語での話し言葉を覚えるのも、両親や回りの人からの話し掛けによって、言葉に係る脳細胞がこの幼児期に発達するからでしょう。
大きくなって外国語が苦手な人も、幼児期の言語環境が違っておればと思うと、この時期の教育はおろそかにできないとつくづく思います。
3歳になる孫の行動を見てて驚くことがあります。遊びの中で、失敗しても失敗しても成功するまで根気良く、同じことを繰り返すのです。見ている私が切れそうですが、不器用ながらも根気良く続けます。それを見て、最近の若者が何かというと気持が切れるというのは、ひょっとしたらもって生まれた情緒の芽を、その後の成長の環境で、摘み取ってしまったのではないかと思います。
情緒は言葉と同じように、人が人間として生きて行くための基本的な知恵ではないかと思われるだけに、言葉を覚えると同じ時期から、学んで行かなければならない教育のように思います。
次元は違いますが、ラムを見ていると感心するような豊かな情緒を持っています。勿論特別な情緒教育をした訳ではありませんが、情緒の芽を摘み取るようなこともしなかったと思います。多分終生、この情緒豊かな感性を、ラムは持ち続けてくれることでしょう。