’07.11.25
「ラムの日記」を返上して、「ラムの月記」と変えなければなりませんね。この日記をかかなければ、ひょっとして11月の日記は書けなかったのではと冷や汗三斗です。
久しぶりにゆっくり新聞を読んでましたら、日経「文化」紙面に「花腐し」で芥川賞を受賞した松浦寿輝氏の一文が載っていました。題名は「犬と暮らす」です。
犬との暮らしについては、このサイトでも「喫茶室」にそれらしきことを書いていますが、思いは全く同感なので、著名な小説家の一文をご紹介します。

自分は「猫派」だと頑なに自己規定して一生をおえるのもいいけれど、どうせ一度しかない人生なのだから、こんな歳(50歳を過ぎてふと、また犬を飼ってみようと思った。子供の頃家に犬がいたけれども、小学生のわたしを主人と認めていなかったからわたしの言うことなどまったく聞かず、その犬が好きになれなかった経験を持つ)になってからであれ、自分の知らなかった楽しみに目覚められるものなら目覚めてみたい。

ということで生後一ヶ月半のゴールデン・レトリーバーが我が家にやって来た。名前をタミーとつけることにした。
どんな動物であれ幼体はみんなそうだが、可愛いことはそりゃあ可愛い。しかし犬を育てることの面倒は想像以上で、やめておけばよかったと最初のうち何度も後悔に近い気持ちになったのは事実である。
猫と違って犬の場合、トイレの場所を教え込むのは手始めにすぎず、そこから先が大変だ。とにかく何でもじゃれかかり、噛み散らす。
コンセントに嵌っているソケットを口に当てていれば感電するぞと引き離し、ビニールやゴムや紐を口に入れていれば呑み込むのではないかとはらはらする。
食卓の食べ物を狙って飛びついてくるのでおちおち落ち着いて食事もできない。散歩がまたひと苦労で、朝晩ひどく時間をとられるのは仕方ないとして、好き勝手な方向へ行こうとするのを引き戻して真っ直ぐ歩かせるのに大汗をかく。

しかも大型犬である。このまま成長しつづけ、人間の中学生ほどの大きさのあるこんなわがまま勝手は生き物と十年も十五年も同居しつづけるのかと、げんなりする瞬間もないではなかった。
すべてがうまく行きはじめたのはいったいいつ頃だったか。私たちのしつけが功を奏したわけではないように思う。
犬の訓練は、技術、経験、反射神経、それに嵩にかかって犬を抑圧できる人格的な威圧感等々、様々なものが要求される高度なわざだが、わたしたちはそのどれも持っていなかった。
ずいぶん勉強して知識だけは仕入れたものの、適切な瞬間に適切な指示を出していいことといけないことの区別を仕込むのは、知識だけあればやり遂げられるような生易しい仕事ではない。

結局タミーのほうでみずから考えて、わたしたちに合わせてくれるようになったのだと思う。
犬に自発的意思を持たせるな、自我を徹底的に粉砕し、人間にひたすら従属する動物に成型せよと説く専門かもいて、たぶんそれが正論なのではあろう。
しかし、犬と付き合うために自分の性格まで変えようという気には、わたしはとうていなれなかった。

いつの間にか様々な問題が自然に解決していた。タミーはだんだんと、わたしたちが喜ぶことを進んでやり、わたしたちが嫌がって顔をしかめることはやらない犬になっていった。
二歳を過ぎたタミーは今では家族の一員で、もうタミーなしの生活は考えられない。あと十年かそこらでタミーが死んでしまうことを考えると今から慄然とする。

まあざっとこんな内容の文章ですが、だれしも感じる愛犬への思いがよくわかります。
私もサリーもすっかりそんな歳になって、今さら主人達に迷惑を掛ける年でもありませんが、いなくなったときの主人達の悲しみを考えると、つくづく長生きをしなければと思います。

このところ冬のような寒い毎日がつづきますが、きょうは風もなく暖かな小春日和の一日です。
日向に敷いてもらった布団の上で、私もサリーも気持ちよく過ごしています。それもこれも、一日でも私たちに長生きをして欲しいと思う主人達の心遣いでしょう。ありがたく冬のお日様を頂いております。